いじめられていたのは、何のため?

成長

私の一番古い思い出は『いじめ』である。物心ついた時から、近所の同年代の子のいじめられてきた。幼稚園でもいじめられた。小学校では、たくさんの子にからかわれた。小6のときは、一人で図書室掃除を3カ月やらされたこともあった。

いじめの先導者を憎くて仕方がなかった。いなければいいのに、と何度も思った。そんなとき、自分に聞いてみた。「じゃあ、そのいじめっ子に仕返しをすればいいじゃん!」すると、小学生の私は答えた。『そんなこと、できないよ。できるわけないじゃん。怖いもの。絶対仕返しなんてできない。反論もできない。』仕返しなんてできない自分、自分はやり返すことはできない人間だと気づいた。『でも、このままじゃあ、生きてゆけない!』幼な心にそう思った。(不思議なことに、死にたい。という発想はなかった。)また、質問した。「じゃあ、どうするの?」小学生の頭で、必死に考えたら、答えがでた。『辛すぎるから、過去のことは全部忘れよう。』そして、もう一つ。『そうだ、性格を変えよう。自分の性格を変えるんだ。あこがれの◎◎ちゃんのように。』その日から、私の改造は始まった。

こんな風にいじめを乗り越えていった私は、中学になってもいじめを受けたことがあった。今度は同学年の女子みんなが私と口をきかないといういじめだ。その時のわたしは、「小学校の時に、似たようなことがあった。その時は3カ月我慢したら、卒業が来ていじめはなくなった。だから、また3カ月我慢すればいいんだ。」と考えた。そして、いじめをやり過ごしていった。

この時、私は学校の先生になりたいと思っていた。いじめを経験している私は、いじめられている子の気持ちがわかる。そんな先生になりたいと思っていた。そして、いじめられている子の気持ちに寄り添う自分になれた。いじめられたことで、自分の成長を感じた。ということは、いじめた人が、私を成長させてくれたという事なのか・・・!それなら、いじめた人に〝ありがとう”ということだ。このとき私は いじめられたという思いを昇華したと思った。

いじめを、受けて成長できてうれしいとさえ思っている。

でも、それだけではなかった。それは・・・・・

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