両親が年取ってくると、介護の問題が出てくる。兄弟がいたら、実際に介護するのは誰なのか、誰が介護できるのか…介護したくても諸事情があって、介護する能力がないものもいる。具体的には、家に親を引き取って住んでもらう部屋がない、お金が無い、家族が迷惑に思う、親に対してよい思い出はないからそもそもやる気がない・・・様々であろう。でも、誰かがしなくてはならない。兄弟で分担してできれば理想的であるが、数人いる中で一人に重荷がのしかかるとしたら、他の兄弟はどんな行動に出るかは兄弟間の中の良さに係っている。
ある、クライアントはご主人に頼まれて、義理のお母様を自宅に招き入れ、介護することとなった。義母は90歳を過ぎているので、歩行は困難。下の世話も大変であった。でも、優しい義母は、クライアントの仕事の様子などを聞いてくれたという。兄弟たちは、義母の生前も死後も義理の姉であったクライアントにねぎらいの言葉や感謝の言葉がなかった。本人はどうしても「ありがとう」と言ってほしい、と願っていた。
ここで、思い出してほしいことは『他人のことは変えられない』という誰もが知っている教訓だ。兄弟たちには事情があったにせよ、母親を面倒見られない、または見たくないという状況だ。親子関係も温かいものであったかどうかわかったものではない。第一、感謝の言葉も出ない人たちである。そんな人から「ありがとう」と言われて、満足するのか?心が救われるのか…?それよりも、義母のお世話をして、楽しかったことはないのだろうか。うれしかったことはないのだろうか。義母からの「ありがとう」は本心からでる言葉だ。義母とお話をして、温かい経験ができたならば、それこそ、宝物と言えるのではないか。義母との思い出は、兄弟たちが味わえなかったものである。この宝のような時間を考えたとき、兄弟からの「ありがとうは、もういらない」とクライアントは答えた。
兄弟たちを変えようと思うのでなくて、自分の考え方が変われば、兄弟たちへの不満はどうでもよくなった瞬間である。そして、義母の介護において、本当に幸せだったのは、介護した自分だと、気づかれました。
よく【他人は変えられない】と言われ、わかっていても、必要な時にこの言葉を忘れてしまい、自分の悩みが堂々巡りしてしまいがちである。今一度、この言葉を胸に、忘れないで生きてゆきたいものだ。